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2018年7月11日 (水)

さきたま史跡博物館

Yjimage2古代ハスの見学後は「さきたま史跡博物館。 なかなか興味深い。ここは あの「金錯銘鉄剣」 が古墳から30数年前 みつかったことでも有名。

その鉄剣に書かれている言葉。 「わたくしはワカタケル王( 雄略天皇)に仕え、天下を治めるのを補佐した。 そこで辛亥の年(471年) 7月に、この素晴らしい刀剣にこれまでの輝かしい功績を刻んで、記念とする。」

この「わたくし」が仕えた人は第21代となる雄略天皇。 雄略天皇の人となりを調べてみた。

第21代天皇。在位は5世紀後半。
父はいんぎょう天皇。母は(おしさかのおおなかつひめのみこと。「日本書紀」によると,兄や従兄弟たちを殺して即位。都は近畿の朝倉宮。朝鮮半島の乱れに乗じ,百済や新羅、,高麗への影響力強化を画策。「宋書」倭国伝の倭王の武(ぶ)とされる。Yjimagedi8w45y5

記紀によれば、安康天皇(雄略天皇の兄) が幼年の眉輪王に暗殺された。安康天皇は、仁徳天皇の子。 この皇子に、妹の皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した仲介役の根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に押木(おしきのたまかつら)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をする。安康天皇は皇子を殺害し、その妃であ中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となった。Yjimageapel8vvv

暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。この2人は葛城の葛城円宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いた。即位後、草香幡梭姫皇女に求婚する道の途中で、志貴県主の館が鰹木を上げて皇居に似ていると難癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。それを婚礼のみやげ物にして、草香幡梭姫皇女を皇后にする。

平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じて、軍事力で専制王権を確立した雄略天皇の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させることであった。 特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った。Kofun_shisekimuseum101_2

具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした。 『日本書記より)紀』   

こんなことを聞けば、雄略天皇は実に多くの人たちを殺して 天皇になったといえる。 つまり、あの鉄剣を持った人は彼の「親衛隊長」のような人だったから、勇敢というか剛勇というか忠実というか、血も涙もうすい人だったのかもしれない。                                       

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